西濱屋の博多あごだしは、長崎県産の焼きあごとイワシ、鹿児島県産の鰹節、北海道産の真昆布、国内産の椎茸、佐賀県産の海塩を、バランス良く仕上げた料亭風味の本格だしです

素材の産地へ足を運び、直接手に取って素材を選び、良質の天然だし素材の中かさらに厳選した6種類の逸品を配合して、美味しく召し上がれるバランスの良い西濱屋の博多あごだしに仕上がりました。

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八丁へ物語

西頭徳蔵(通称:博多八丁兵衛・自称:八丁へ )の略歴

ご先祖様の博多八丁兵衛について

  本 名 西頭徳蔵(にしとうとくぞう)
  幼 名 初次郎
  通 称 博多八丁兵衛
  自 称 八丁へ(盟友である仙厓和尚には八丁へ[屁]と呼ばれていたそうです)
  生 年 1760年(宝暦九年)博多(福岡)生まれ (仙厓和尚よりちょうど10歳年下です)
  没 年 1848年(嘉永元年)8月10日寿八十八歳(偶然ですが仙厓和尚と同じ年齢です)

江戸時代後期、博多の古渓町の魚問屋の筆頭である「西濱屋」の主人で、屋敷塀が八丁あるというので自らを「八丁兵衛」と名乗っていたようで、博多の春のお祭りである「博多どんたく」の源流となる、「博多松囃子(はかたまつばやし)」の「通りもん」の創始者とも言われています。

・八丁兵衛の子孫:演劇評論家の西頭三太郎さん(初代哲三郎さんのお兄さん)

・八丁兵衛の子孫:2003年に博多町人文化勲章を受章した西頭昭三さん(1928年生-2004年6月没|享年75歳)

・八丁兵衛の子孫:人形師の初代西頭哲三郎さん(無形文化財保持者)・二代目西頭哲三郎さん(伝統工芸士)

博多あごだしのパッケージデザインになったご先祖様の八丁兵衛さん

博多あごだしのパッケージデザインになったご先祖様の八丁兵衛さん

八丁兵衛さんが博多魚問屋の筆頭を務めていた頃の西濱屋の商い風景

八丁兵衛さんが博多魚問屋の筆頭を務めていた頃の西濱屋の商い風景

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博多の魚問屋「西濱屋」の主人である「博多八丁兵衛」の風変わりな墓

博多八丁兵衛とはいったいどんな人?

石堂川に沿った博多区中呉服町(旧博多上堅町)の海元寺の北側にある浄土宗正定寺(しょうじょうじ)の境内に、自然形の芥屋石が横たわった、ひときわ目立って実に風変わりで大きな墓石があります。

聖福寺の人気和尚であった仙厓和尚の直筆により、赤文字の「八丁へ」という文字の碑銘が彫り込まれた横型の大きな墓石、これが博多の魚問屋の筆頭である奈良屋町の魚問屋「西濱屋」の主人であった風変わりな西頭徳蔵のユニークな墓石です。

一方の正定寺の住職も実にさばけた人で、面倒臭がり屋の博多八丁兵衛にちなんで、「徹誉逸道善士(てつよめんどうぜんし)」と言う実にユニークな戒名を付けてくれたようです。

気骨と反骨が売り物で洒落っ気も一杯の「口八丁手八丁」の博多八丁兵衛と

ユニークで毒舌も鮮やかな「奇想天外」な奇僧仙厓和尚との運命的な出会い

江戸の文化の爛熟が頂点を極めていた時期、「ひょうきん」な名物男で、生厓親しまれる事と成った「八丁兵衛」と言う名前を自ら名乗っていたが、当時ユニークで毒舌も鮮やかな聖福寺の名物和尚の仙厓和尚と初めて出会った際に、「八丁兵衛はお前には勿体なか、八丁へ(屁)で丁度よか」と言われたそうです。

しかし、その名前がすっかり気に入ってしまい、自らの墓石に仙厓和尚から「八丁へ」と書いてもらい、それを彫り込んで、さらに茶目っ気たっぷりに赤い字に塗り込んだそうです。

この墓石は、糸島郡西ノ浦の漁民達が運び込んで寄贈したそうです。除幕の日には、お揃いの赤手拭いをした数十人の加勢人が駆け付け、寺門の内外に押し寄せた群衆に、鉢巻姿で紅白のお餅を撒いたそうです。

そして、聖福寺(福岡市博多区御供所町6-1)から正定寺(福岡市博多区中呉服町10-14)に博多芸者を総揚げして、自らは赤頭巾に赤バッチの姿で、三味線・太鼓のお囃を先導して、祝賀の様に盛大で賑やかな、当時では大変珍しかった「生前葬」を取り行ったと言う実にユニークなご先祖様です。

また、1834年10月(天保五年)には、初興行で博多を訪れていた、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いであった千両役者の江戸歌舞伎役者市川海老蔵(七代目団十郎)を、八丁兵衛が伴って仙厓和尚を訪れた際にも、大きな目の海老蔵を見て、仙厓は、勢いよく跳ねた一尾の海老を大きく描いたお得意の絵に、「お江戸では 一かわ(市川)二かわ知らねども ピンと跳ねたる 海老の目ン玉」と言う歌を皮肉たっぷりに書き込んで海老蔵の宿まで届けさせたそうです。一方の博多八丁兵衛も、海老蔵好みの南蛮渡来の品々や桁外れの歓待で海老蔵の度肝を抜いてアッと言わせたそうです。

この時、仙厓和尚が八十五歳、八丁兵衛が七十四歳、海老蔵が四十四歳の初顔合わせでした。

浄土宗正定寺の境内に横たわるひときわ目立った八丁兵衛さんの大きな墓石

正定寺の境内に祭られている西濱屋の主人の西頭徳蔵(通称:博多八丁兵衛)の墓石

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「八丁兵衛」とは無遠慮の仲であった臨済宗妙心寺派の禅僧「仙厓和尚」

盟友・仙厓和尚とはいったいどんな人?

江戸時代後期の臨済宗妙心寺派の禅僧です。

  本 名 仙厓義梵(せんがいぎぼん)
  通 称 仙厓さん
  生 年 1750年(寛延三年)美濃国(岐阜)生まれ (八丁兵衛よりちょうど10歳年上です)
  没 年 1837年10月17日(天保八年)寿八十八歳

1750年(寛延三年)美濃国武儀郡の井藤甚八の子として生まれる

1760年(宝暦10年)美濃清泰寺の僧侶となる

1768年(明和五年)武蔵東輝庵の月船禅彗に師事

1789年(寛政元年)~1811年(文化八年)22年間を筑前博多聖福寺の第123世住持を務める

1837年(天保八年)10月17日に八十八歳にて没す(偶然ですが八丁兵衛と同じ年齢です)

仙厓和尚はその自由奔放な生き方を以て知られ、狂歌も多く詠み、その毒舌から多くの逸話も残しています。

自由奔放な歌詠み

美濃国に於いて新任の家老が悪政を行った際に、家老と悪かろうよかろうを掛詞として詠んだ狂歌

~よかろうと 思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう~

美濃国を追放された際に、美濃国と蓑を掛詞として詠んだ狂歌

~から傘を 広げてみれば天が下 たとえ降るとも蓑は頼まじ~

絵画を依頼に来る者が後を絶たない事に、絵を描く紙と便所の紙を掛詞として詠んだ狂歌

~うらめしや わがかくれ家は雪隠か 来る人ごとに紙おいてゆく~

初興行で博多を訪れた大きな目の市川海老蔵に、市川と一番を掛詞として詠んだ狂歌

~お江戸では 一かわ二かわ知らねども ピンと跳ねたる 海老の目ン玉~

辞世の詩句

来時知来処 去時知去処不撤手懸崖 雲深不知処

(来る時来る処を知る 去る時去る処を知る 懸崖に手を徹せず 雲深くして処を知らず)

辞世の言葉

「死にとうない?」・・・だと言う逸話もあるようです。

仙厓和尚は多くの絵画(禅画)や書や詩句を残した事でも有名です。

聖福寺動画映像(YouTube)

聖福寺公式サイト

僊厓義梵禅師

仙厓和尚の書画26点

仙厓和尚が描いた鉢巻姿の西濱屋八丁兵衛の大鯛の競り市風景の掛け軸

~七匁七匁 八匁八匁 西濱屋のせり~

八丁兵衛さんの子孫である親戚の西頭三太郎さんの所蔵

仙厓和尚が描いた鉢巻姿の西濱屋八丁兵衛の大鯛の競り市風景の掛け軸

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博多八丁兵衛の墓石がある正定寺と仙厓和尚が居た聖福寺へのアクセス

博多八丁兵衛の墓石がある正定寺と仙厓和尚が居た聖福寺へのアクセス

博多八丁兵衛の墓石がある正定寺と仙厓和尚が居た聖福寺へのアクセス

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「博多学」で「博多八丁へ」を記述された経済学者の「武野要子先生」

武野要子先生の「博多学」

福岡大学名誉教授で経済学者である武野要子先生は「貿易史」・「商業史」に関する著書を多数書かれていますが、自らの学生時代は九州大学に学び、地元の九州産業大学・福岡大学や、後には兵庫大学でも長年に亘って教鞭を振るわれています。その武野要子先生がまとめられた「博多学」でも「博多八丁へ」がこの様に紹介されています。

わたくしが福岡に来て驚いたのは、いわしが入った湯豆腐であった。よほど新鮮ないわしが日常的に庶民の手に入ったのであろう。西濱屋こと、古渓町(現在の下呉服町)の博多八丁へ(西頭)が新鮮な大きな魚を持って、売りさばいている姿が目に浮かんでくる・・・。

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往年の美男子「阪東妻三郎」が「博多八丁兵衛」の役を演じた京都大映映画の「博多どんたく」

阪東妻三郎が演じた博多八丁兵衛

1947年12月30日に、福岡出身の脚本家である八尋不二が創作した物語が、京都の大映により「博多どんたく」として制作・公開されました。

ストーリーは、江戸時代後期の博多の町。博多の古渓町地域は袖の湊時代からの魚問屋町で、その中でも魚問屋「西濱屋」の主人である博多八丁兵衛と言う男は、大変ひょうきんな名物男で、男気にも溢れており、町の人達に大変慕われていた。

時に、福岡黒田藩の勘定奉行が、福岡城内の改修工事に必要な費用を補う為に、博多商人に不当な上納金を課そうとしていたが、魚問屋町の筆頭であった博多八丁兵衛はこれに抵抗しようとする・・・と言う内容で、実在の博多商人であった博多八丁兵衛をモデルとして描かれています。

何と全盛期の阪東妻三郎さん(通称:阪妻)が博多八丁兵衛の役を演じています。

大映映画・博多どんたく:1947年(昭和22年)12月30日公開/福岡市Fu:a提供

阪妻さんと言えば、女性憧れの往年の美男子としても、俳優の田村高廣(長兄)・田村正和(三男)・田村亮(四男)の田村三兄弟のお父様としても大変有名ですね。

田村四兄弟公式Webサイト

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